渋沢元治『電界百話』(1934年)を読む
渋沢元治(1876-1975)は明治時代から大正時代にかけて逓信省に勤め、電気事業に技術面・指導面から大きく寄与した。特に電気設備技術基準の前身である電気工作物規定の成り立ちを調べていると、もれなくこの人物の名前を見ることになる。その功績は澁澤賞 – 日本電気協会の『澁澤元治伝』に10数ページにわたって記されている。
私は今回調べるまで知らなかったが、渋沢元治は名古屋大学(当時、名古屋帝国大学)の初代学長でもあったようだ。名古屋大学にあった渋沢元治記念館は遺族の逝去後に解体されてしまったようだが、資料の一部は東海国立大学機構大学文書資料室に保管されている(資料は書庫にあり、閲覧するには申請が必要)。
電力史の黎明期
この本の最初の話題は、日本における電気工学教育の発端から始まる。工部大学校(東京大学工学部の前身)の電信科が電気工学科に改められた頃の時代背景が分かる。電気より先に電信が学問として研究され教えられていたという点は興味深い。
そして、電気事業を規制(電気営業取締規則を制定)するきっかけになった、帝国議事堂の失火といくつかの電気死亡事故があったわけだが、その次に挙げられる電気窃盗事件の話が興味深い。
明治34年の11月頃、横浜市尾上町3丁目31番地藤村清次郎が電気職工の吉田次郎吉なるものと共謀して、横浜電灯会社(後、東京電灯会社に合併)から配電している屋内電線に自ら針金を接続して、毎夜10燭の電灯を点け電気を窃取していたのであった。此種の窃盗事件は他にもあったので電灯会社でも捨て置き難くこれを訴えたのである。
(引用者注釈:省略)東京控訴院では明治36年3月20日之を無罪として判決を下した。その理由は詳しいことは略するが
『人の所有物を窃取したるものは窃盗の罪となし云々と規定し而して同法草案に依れば他人に属する有体動産を窃取する云々とありて窃盗罪の目的物は有体物に限ると解釈するを至当とす。然るに理学博士田中舘愛橘の鑑定に拠れば電流はエーテルの作用に基因し有体の物質的物件なりと云うを得ずとあるに依り当院は此鑑定に基づき電流は有体物にあらずと認む。故に電流は窃盗罪の目的物たるを得ず、従って之を借用したる所為は窃盗罪を構成せざるや勿論なり。』
というのであった。これは明らかに当時隆々として進歩発達の途にあった電気事業にとり一大脅威であった。勝手に電線を取付け電気を窃取した者が無罪となっては電灯会社はたまったものではない。
かくして明治40年(1907年)の刑法改正の際に「第145条 本章ノ罪ニ付テハ電氣ハ之ヲ財物ト看做ス」という条項が追加され、現行法にも「第245条 この章の罪については、電気は、財物とみなす。」として引き継がれている。しかし、他人の電気を無断で使うことが明確に『窃盗の罪』と規定されていることは現代日本でもさほど知られていないようだ。
あと、さらっとスルーしたが、上の文中に出てきた「エーテル」という言葉は現代科学では聞き慣れない。私も子どもの時に科学本で読んだ記憶がギリギリあるくらいで、ネットで調べ直してしまった。ここに当時信じられていた電磁気学が垣間見えて興味深い。
渋沢の体験
次に、当時23才の渋沢が大学での実習として小田原電気鉄道で発電機や回転変流器の据え付けを指導した話が出る。学者の卵が建設工事さながらの発電機の据え付け現場に赴いて助言するという姿は、現代では想像しがたい。ドイツ留学時代の実習の話もなかなか。
9月6日 午前9時ジーメンス社シャーロッテンブルグ工場に行く。(省略)マイステル(職工長)は「これから毎日午前7時から午後4時まで来て、最初は発電機工場の中、鈩仕上工場から順次機械工場を約2・3週間あたり回って、3か月くらいに一通り回られそれから試験場に行くこととさせられたい」と申し渡された。自分は未だドイツ語にも達していない時であるから、何事も経験と思って「ヤー」と答えた。(省略)
9月9日 午前7時出勤、今日はまた2つの鉄片の組み合わせを作ることを命ぜられた。
9月10日 午前7時出勤、また変わった鉄片のつぎ合わせを命ぜられ、手に豆が出来て大いに閉口。
9月22日 今日より発電機のブラッシュに用いるバネに孔を打ち抜く器具の製作を命ぜられた。斯様な器具には術語があるが、其の日本語をさえ知らない自分にはドイツ語が通じないので職工とかなり苦しい押問答をして漸く納得してこれにかかった。
実習だからなのだろうけど、仕事でやったことを日記に残して、その日記がこの伝記を書くときまで残してあるというのがマメだと思う。この後、渋沢は米国のGE社でも実習を受けることになる。
逓信省在職中の渋沢が人体の感電危険電圧を調べるために自ら感電する実験を行ったことは、後に方々の専門誌でも語られる有名なエピソードとなっている。このエピソードは、草履履きの炭鉱労働者が多湿の坑内で電灯線に触れたときの危険性を考えるという、前提からして時代を感じる。
電力技術や産業の発展、安全、保安の話が並ぶ中で、一つこれと異なる趣を持った話が出ている。
日本の風景は世界に於いて特異のものであり、これが評価することの出来ぬ吾邦に於ける大きな国宝であることは今更いうまでもない。然もその多くが高山名川にあるので、これを人工的の施設で害することは単に物質的の損害のみでなく、精神的に大きな損失を来すものであることは玄に喋々を要しないことである。然し水力発電を開発する場合にはどうしてもこの山川の風景保存と撞着する場合が起るのは免れない。
静岡県における観光地の一つに『白糸の滝』がある。この滝を流れる芝川は常時水量が豊富で短い割に落差もあり、水力発電の立地に最適な場所で、現にこの水域には10を超える水力発電所がある。当時、この川の水利権の出願者は10社以上あったようだが、この時の渋沢や李家隆介(静岡県知事)による遠謀深慮がなければ、現在の白糸の滝の景観は保てなかっただろう。
外国の技術を採り入れることの苦労
電力産業の黎明期は専ら電気機械を米国やドイツなどの外国から輸入していたわけだが、この書ではその苦労について書かれている。特に日本は北米やヨーロッパに比べて湿度が高いことから、輸入品を使用するにあたって日本の環境に合わせた絶縁性能の試験を行うことが重要だったようだ。両国に留学した経験を持つ渋沢は、その違いを肌で感じていたからこそ、そこに着目したのかもしれない。
電気栽培
この書によれば、一時期ヨーロッパで電気栽培の研究が何件かなされていたようだ。
ここでいう電気栽培というのは、植物に電灯の光を当てて栽培することではなく、電気を流す(電気的な刺激を与える)ということ。その当時の実験結果では、小麦やニンジンなどに電気栽培を試みた結果、収穫が増えたというのだ。渋沢自身もこの実験を行ったが、一部の書に書かれていたほどの増収はなく、「1割程度の成長促進作用はあるが経済上有利かどうかは分からない」と記している。
電気と波
この書の最後はラジオで語られた電磁波の「通俗的な話」で締めくくられている。その最後の一節。
(電波の速さは)1秒間に30万キロメートルであって地球上で日本とその反対側アルゼンチンのブエノスアイレス即ち地球上での最遠距離まで1/15秒で到達する。若し音波ならば1/15秒に届くのは僅かに22メートルに過ぎない。だから我々が電波を以て世界の各国と話を交換しているのは、音波で直径22メートルの室内で話をしているのと同じわけである。即ち電波によって世界各国の人類が恰も一つの家庭に入っていると考えることが出来る。
明治天皇の御製に「四方の海皆はらからと思う世になど波風の立ち騒ぐらん」とあるのは、明治大帝の世界平和の御理想と拝察することが出来る。吾人も電波を通じて世界各国相親しみ、大帝の御理想に副い奉りたいと希望している次第である。