日本におけるパソコンの起点はTK-80と秋葉原か?
トップの画像は日経エレクトロニクス1978年7月10日号より、パナファコム PFC-15の広告。
川俣晶氏の『国産初のパソコン・はじめてパーソナルコンピューターを自称した国産機は何か:それはPC-8001ではない』(株式会社ピーデー、2019年初版)を読んでいました。氏の本は何冊か読みましたが、他のパソコン史を語っている本や記事が取り上げないような切り口が面白いですね。「HITAC 10なんて所詮ミニコンでしょ。」と切り捨てるのではなく、当時の様々な文献を調べ上げる調査努力と、パソコンとしての側面を見つけるために、固定観念を捨てて様々な視点からそれを検証する心意気は素晴らしいです。
1970年代個人用コンピューターの存在
その電子書籍の中で私の以下の記事が参考文献として紹介されていますね。
→ 黎明期の個人用コンピューターの広告[No.1] - Diary on wind
この記事はマイコンブーム到来前の個人用コンピューター(特にデスクトップコンピューター)について調べる意図がありました。私はこのブログに技術系の記事を書くとき、他人が書きそうにない内容を書くことが多いです。ネットでパソコン史を語っている記事って、TK-80のようなマイコンキットを起点とするものが多いんですよね。でも、それ以前から存在した個人用コンピューターについて語る人はほとんどいませんでした。
理由はその記事でも書いているとおり、それは消費者から縁遠い存在だったから。安田寿明氏の『マイ・コンピュータ入門』を読むと、ミニコンやデスクトップコンピューターを中古で購入して私的利用する人が居たことは確かですが、それはほんの一握りで、非常に狭いマニアの世界の話と思われます。主に業務で使われたコンピューターは、東芝のワープロJW-10のようによほど特筆する特徴や接点がなければ、世間一般に語られることはほとんどありません。ネットの世界ではそれが顕著になります。そのような情報が積み重なっていくうちに、いくつかの歴史は埋もれ、私たちが真実を見通せる機会は失われていくでしょう。
オフラインの文献を探すのは骨が折れる作業です。例えば、先の記事でCOSMO TERMINAL-D (1977年発売)の広告を載せていますが、これを見つけるために1977年後半分の日本経済新聞と日経産業新聞はおよそ目を通しました。パナファコムC-15の発表については当時の『情報科学』という雑誌に色んな新聞のコンピューターに関する記事リストが載っていて、そこから該当する情報を見つけることができました。この作業は物好きな私でさえ投げ出したくなる時があったものの、ネットの世界では到底見つけられないような新しい発見に気付いたときは心が躍りました。そこには埋もれたままとなった歴史がたくさんあります。例えば『内田洋行70年史』(1980年)という本に「(精工舎は)パーソナルコンピュータ分野においてHP、ワング、オリベッティを抜いて市場占有率1位 36%を獲得した。」との記載がありますが、ネットでこれらのメーカーの名前を並べているところを見たことがありません。精工舎がパソコンの祖先と言われるHP 9800やWang 2200などに対抗していたという先見の明には驚きます。
1970年代の日本のコンピューター文化と米国との決定的違い
デスクトップコンピューターは技術的な側面で見ればパソコンと共通点が多い。実際、精工舎は1974年のSEIKO 7000からパーソナルコンピューターを称している。それなのに、歴史的にはその先祖どころか完全に分離されているところが興味深いです。実際調べていても、パソコンのルーツと全然結びつきません。
日本国内の低価格ミニコンピューターについては川俣氏が別書『1970年代パソコンとBASICの歴史』でまとめられており、これも目からうろこの情報ばかりでした。日米のコンピューター史の大きな違いは、コンピューターが個人に広がる時期について相当な差があることですかね。このギャップはTK-80、PC-8001、PC-9801、そしてWindows 95へと段階的を経て縮まっていきました。
ただ、川俣氏の言う、日本では電話回線の規制が厳しくTSSが根付かなかった、というのはどうなんでしょうかね。それは一理あると思いますが、例え中古で何とかテレタイプを買えたとしても、日本の住宅事情を考えると、あんなうるさい機械を研究所や工場以外で使おうという人はなかなか居ないと思います。また、アメリカのミニコンと対比して日本のオフコンを取り上げたのは良い着眼点ですが、オフコンの本質が理解できていないように見えます。DECのミニコンは個人を相手にしていたわけではありませんが、オープンアーキテクチャーでドキュメントが充実していて、ユーザーがソフトを開発できる環境がありました。対してオフコンは、ハード・ソフト・保守サービスをひっくるめたシステムの完成品であり、アーキテクチャーは非開示。そこにマニアが「遊べる」ような要素はありません。さらに、日本特有の社会体質・気質などもあったんでしょう。マイクロソフトに関する伝記物を読んでいると、1980年代のマイクロソフトがいかにいい加減な企業だったか分かります。ベンチャー企業とはいえ、日本の企業イメージでは到底考えられません。でも、結果的に一大企業へ成長しました。
(3月31日追記) 日本語という言語の壁の存在をすっかり忘れていた。元来、コンピューターはハードもソフトも英語基準の代物だ。コマンドラインや命令セットのコマンドも英単語をベースにしたものが多い。そもそも当時、数百万円したオフコンの世界でさえ、漢字がまともに扱えるようになったのは1970年代末期以降のこと。英語圏と比較するには前提条件が違いすぎる。
日本初のパソコン議論
これについては川俣氏の本でまとめられている通り。議論の行き着く先が、パソコンの定義自体があやふやなのだから、それを名乗っているハード全てに焦点を当てて、最初に登場したものを選ぶ、というのはなかなか思い切っています。
上の記事を書いたとき、日本初のパソコンについての記述は副次的に書いていますが、その候補を列挙する意図は元々中心にあったかもしれません。実はこのCOSMO TERMINAL-Dの広告とならんで、別枠にPERSONAL-11の記述があったのですが、「手持ちのワンボードマイコンをパーソナルコンピューターにレベルアップ」との記述のみで実体が分からず、完成品じゃないということでそれ以上調べませんでした。
日本におけるパソコンの起点はTK-80と秋葉原か
日本のパソコンの歴史を簡略に述べようとするとワンボードマイコンのTK-80が起点になるのは致し方ないと思います。PC-8001がNECを絶対的地位に押し上げたことは事実であり、PC-8001の登場はTK-80抜きにしては語ることができません。それ以前の歴史はニッチな市場とマニアの世界の話です。ただ、短縮された情報が広まった結果、「日本のパソコン史の原点はTK-80のヒットにあった。」となり、漠然と「TK-80は最初のヒット商品だった。」「秋葉原はパソコン発祥の地。」といった認識を生んだのでしょう。
前者については、実際の所、TK-80はその価格が初心者に受け入れられたものの、それを活用するのはおろか完成させるのも難しく、ビットインでの手厚いアフターサポートによって限定的な支持を得ていた。不満点を解消したTK-80BSの登場と第三者による周辺機器・サービスや解説記事の充実が、消費者層からのTK-80に対する高評価に結びついた。というところでしょうか。私は漠然としか掴んでいなかったのですが、川俣氏はその点を明らかにしてくれました。
ある製品の歴史を語るとき、その表層にしか目を向けず、こういう企業戦略や背景の話が軽視されるケースは特にネット世界に多いですね。今私が書いた文章も、μCOM-80の全体像を知らない人が読んだらTK-80がまるで欠陥品であったかのように受け取られることでしょう。まだ情報が欠落しています。でも、そういう広範な視点で書くには、ブログやSNSでは到底狭すぎる。
後者については現状の秋葉原を見ればそう考えるのは仕方ないと思いますが、当時のマイコン黎明期を知る人からはむしろ新宿や渋谷が拠点だったという話はよく聞きます。「秋葉原はまだコンピュータの匂いはほとんどなかったですよ。そういう店は、新宿とか、違うところにありました」(『蘇るPC-9801伝説』(2004年)NEC 渡邊和也氏の発言)
川俣氏の本は一定の知識があることを前提に、コラムとして情報を出していく書き方で、特定の主題の下に結論は書かれているものの、歴史書としてはまとまっていません。それはタイトルが物語っています。ただ、既存の観念に囚われず調査していく姿勢は評価できます。江戸時代を研究する歴史家がいるように、コンピューター産業を研究する歴史家(評論家)がいて、歴史をまとめた本を書いてくれないものでしょうか。