Image: 低圧、高圧といった電圧区分の変遷

エネ管の試験対策をしないといけないのに、どんどん違う方向に興味が向いていく…

現在の電気設備技術基準において「低圧は直流750V以下、交流600V以下」になった経緯を調べてみた。結果的に電気事業法の歴史を紐解くことになった。

電気事業に関する規制の始まり

電圧区分の境界は最初から一貫して決まっていたわけでは無く、その時代の状況に応じて変化してきた。その始まりは明治時代中期まで遡る。

明治16年(1883年)、東京府は東京電灯会社の会社設立に対して許可を与えた。明治20年(1887年)、東京電灯は25kWの直流発電機を使って210V直流三線式架空電線による配電を開始した。これが日本における最初の本格的な電気事業の始まりとなった。

明治22年(1889年)、大阪電灯は初めて高圧1000Vによる配電を始めたが、それから程なくして消防夫が消火活動中に高圧電線に触れて死亡する事件が起きた。

明治24年(1891年)1月20日早朝、帝国議事堂が火災により全焼。警視庁は火災の原因は漏電にあったと報告し、このことは新聞で大々的に報道された。逓信省は漏電火災や感電事故の多発を受けて、各地方庁に対し電気事業の取締方法を定め監督するよう訓令を出した(逓信省訓令第7号、明治24年8月17日)。この時点では国が直接電気事業を監督するシステムではなく、自治体で規則が設けられた。その中でも警視庁の電気営業取締規則は、後の電気事業法や関連規則に通じる所が多い。

警視庁 電気営業取締規則 第20条(警察令第23号、明治24年12月28日制定)

Image: 電圧区分

直通電流ニアリテハ三百ヴオルト以上交番電流ニアリテハ百五十ヴオルト以上ヲ高壓ト稱ス以下此ニ倣フ

第20条では感電防止の観点から電線の敷設条件を定めているが、この中に括弧書きで「高圧」の定義を定めている。ここでは直通電流300V「以上」と交番電流150V以上を高圧としている。この規則には「低圧」の用語は登場せず、また、特別高圧の区分は設けられていない。

電圧区分や交流と直流での数字の違いについて、後年に次のように解説されている(以下で言及されている電圧区分は昭和21年時点のもの)。

電壓の高低に依つて、危險の程度が異るから、夫々電壓に應じて適當な施設とする。然し何「ヴオルト」はどうと云ふやうに一々定めることは面倒であり、夫れ程にする必要もないから、電壓を大体上記のやうに三種に分つて、之れに應ずる設備を規定して居る。尤も特別高壓では配電用の25kV以下と、之れ以上の送電用とでは定められた施設がよほど相違する。

絶緣物が破壞せられるのは、電壓の最大値である。併而吾々が用ふる交流の最大値は普通の電壓計の指す電壓の1.4倍、或は之れ以上である。然も交流の方が絶緣物を破壞し易いので、低壓の限度が交流は直流(600V)の半分(300V)とせられて居る。

― 電気技術研究会(編)『屋内電気工作物規程解説』, 電気書院, 1946年, p.30.

電気分野を知る者にとっては当然のことを述べているのだけど、国立国会図書館デジタルライブラリで大正時代や昭和初期に出版された電気技術者向けの本を読むと、電気理論の基礎は現在とあまり差異ないことに驚く。

交流150Vの数字は今でも電気設備技術基準において低圧電灯・屋内配線の対地電圧上限やB種接地抵抗の計算値として使われている。電気設備技術基準はその前身「電気工作物規程」のさらに前身である「電気工事規定」(逓信省令第26号、明治44年9月5日公布)に由来するが、その数字の理由について元逓信省電気試験所員の澁澤元治は電気学会雑誌(資料3)で「危険電圧を150Vに選んだことについては当時文献もなく、こんな事情に困ったのである。」としながらも、「高圧が低圧側に洩れれば、接地線で短絡してヒューズを切るホンの瞬間であるから、この位いの電圧でよかろうというので定まった」と書いている。それから感電実験の結果を例に挙げ、最後に「結局精密に示すには人体を通る電流と時間との総合値でなければならない。しかし、規程にはかかる表示法を用うることは、実際に適用する場合に不便である。そこで、本規程150Vは、本邦のように湿気の多い季候では妥当であると言い得られると思う。」としている。

電気事業取締規則 第6条(逓信省令第5号、明治29年5月9日制定)

Image: 電圧区分

此ノ規則中低壓トハ直流法ニアリテハ五百「ヴオルト」交流法ニアリテハ二百五十實効「ヴオルト」ヲ超過セサル電壓ヲ謂フ
高壓トハ低壓ノ制限ヲ超過シ直流法ニアリテハ三千「ヴオルト」交流法ニアリテハ三千實効「ヴオルト」ヲ超過セサル電壓ヲ謂フ
特別高壓ト稱スルハ高壓ノ制限ヲ超過セル電壓ヲ謂フ

電気の利用範囲の拡大や事業競争が生じ始めた中で、電気事業の取り締まりを自治体に一任することには問題があったため、政府は所轄官庁を逓信省とし、逓信省は取締法規取調委員会を設置して電気事業の統一規範を定めた。名称が「営業」から「事業」になったことから分かるように、この規則では自家用や電気鉄道への適用も考慮し、内容が大幅に拡充されている。

低圧区分が直流300Vから500Vへ引き上げられたのは、翌年の改正のことを考えるに、路面電車への適用を考慮したのだろうか。

3000Vを境として新たに特別高圧の区分が設けられたが、これに対応する技術基準は本規則に定められてなく、第8条で「特種ノ保安装置ヲ為スモノニ限リ土地ノ状況ニ依リ許可スルコトアル」とだけある。特別高圧での敷設は原則禁止であり、申請があれば「特別に」許可を与えるものだった。これについては後に逓信省が内規を定め、事業許可の都度にこれを交付していた。しかし、明治37年より東京電灯が駒橋発電所から早稲田変電所までの75kmを55000Vで送電する工事を行った際に、沿線の数多の土地や人家に影響が及んだことで様々な問題が浮き彫りになったため、明治40年に特別高圧電線路取締規則、明治41年に特別高圧電気工作物施設規程が制定された。

当時斯様な特別高圧の電線路と人家との関係に就ては次の様な命令が下附されていた。即ち特別高圧線と人家とは電柱の地表上の距離に等しい間隔を保たねばならぬ。特に堅固に作られたH型柱等を用いる場合は必要があれば電線と人家との水平距離を十尺まで近づけることが出来る。然し十尺以内には決して近づけてはならぬ、というように規定されていた。ところが此の命令事項が段々電線路の通過地所の持主にわかると、往々自分の地所に家屋を作るという理由で、送電線の通過に対して苦情を持ち込むものが出て、時には逓信省まで請願に来たものもあった。愈々送電間際に若し左様な人があると、それも正当の理由があれば格別、故意に建設を邪魔して多額の金員を強要する者などがあっては、折角多額の建設費を投じて出来上がった送電線も使用が出来ぬことになる。そこで逓信省では之を顧慮して十二月の初め(駒橋-早稲田線)工事の竣工直前、特別高圧電線路取締規則という簡単な逓信省令を公布した。

― 渋沢元治『電界百話』, オーム社, 1934年, p.84.

この明治29年の規則はわずか1年で電圧引き上げを含めて大幅に改正されている。これを策定した委員会がすべて役人や学者で構成されていたことから、実状にそぐわなかったため、民間の電気事業者より委員を加えて再検討された。

電気事業取締規則 第6条(逓信省令第14号、明治30年6月23日改正)

Image: 電圧区分

此ノ規則中低壓ト稱スルハ直流法ニアリテハ六百「ヴオルト」交流法ニアリテハ三百實効「ヴオルト」ヲ超過セサル電壓ヲ謂フ
高壓ト稱スルハ低壓ノ制限ヲ超過シ直流法ニアリテハ三千五百「ヴオルト」交流法ニアリテハ三千五百實効「ヴオルト」ヲ超過セサル電壓ヲ謂フ
特別高壓ト稱スルハ高壓ノ制限ヲ超過セル電壓ヲ謂フ

電圧降下を考慮して直流の低圧区分が600Vまでに引き上げられ、交流もそれに追従して300Vまでに引き上げられた。ただし、需要家屋内については低圧を要件としていた表現を改め、従来通り直流500V以下、交流250V以下を要件とする規定になった。

これらの変更は、電車線に直流500Vを用いるときはこれに対する発電機は饋電線の電圧降下を考慮した600Vを用いる必要があったからである。(資料1 p.45)

明治44年(1911年)に電気事業法が制定されたことに伴い、電気事業取締規則は電気事業法施行規則、電気工事規程、自家用電気工作物施設規則などの命令に改められたが、この電圧区分は戦後の省令改正まで約50年にわたって維持された。旧電気事業法はポツダム宣言受諾後の公益事業令で廃止されたが、電気工作物規程は公益事業令や臨時措置法の附則規程により、新電気事業法が制定されるまで存続することになった。

電気工作物規程 第3条(通商産業省令第76号、昭和24年12月29日)

Image: 電圧区分

電圧は、左の区別により低圧、高圧および特別高圧の三種とする。

一 「低圧」とは、直流では七百五十ボルト、交流では三百ボルト以下のものをいう。
二 「高圧」とは、低圧の限度をこえ七千ボルト以下のものをいう。
三 「特別高圧」とは、高圧の限度をこえるものをいう。

直流600Vが直流750Vに改められた。この頃、市外や幹線などの長距離鉄道路線の饋電線では直流1500Vが一般的になっていた。低圧の上限をその半分の750Vとすれば変圧比が2:1で降圧できることから、市電(路面電車)への電源供給の利便性が増すと考えられた。低圧交流電圧は300V以下で据え置きとなっている。(資料2)

この頃、都市の復興や人口の増加、産業の発展などから電力需要が急増したことで電力供給不足が深刻な問題になっていた。当然、発電所の増設は進められていたが、資金繰りや工期の問題から設置に時間を必要とした。これによる解決を待っている間にも需要は増加傾向にあり、送配電設備の改良など様々な視点から状況の改善手段が検討された。これには高圧配電網の昇圧も含まれた。

高圧の範囲は7000Vまでに引き上げられたが、3500V以下とは工事方法の指定が異なっていたことから、既に普及していた3300V高圧配電網の昇圧はそれほど進まなかった。

この規程は昭和40年(1965年)に新しく電気事業法が制定された際に電気設備技術基準へ改められた。

配電電圧6kV昇圧計画実施要領および同要領細則(通商産業省34公局第787号、昭和34年10月1日)

この直前に電気工作物規程の大幅改正(省令第47号、昭和34年5月1日)があり、工事方法の3500V境界がほぼ廃止された。また、本通達によって各電力会社は15年以内に高圧配電線の全回線を6600Vに昇圧することが目標となった。これによって高圧配電網の6600Vへの昇圧が一層進み、現在はこれが一般的になっている。

中性点接地方式高圧三相4線式が試験的域を脱し、かなり多数実施される段階となるに及んで、既設の3,000V電線路をそのまま5,200Vに昇圧することができるにもかかわらず、昇圧前と昇圧後の工事方法に相違があることは、非常に不便であってこの配電方式の普及に好ましくないところから電気工作物規程調査委員会で長期にわたり調査した結果、大体3,000V級と6,000V級とでは他に対する危険度において大差ないという結論に達したので、この改定にあたり条件附(第78条の接地事故時自動遮断すること)ではあるがほとんど全部にわたつてこの差別が撤廃されたのである。(資料2)

電気設備に関する技術基準を定める省令 第2条(通商産業省令第61号、昭和40年6月15日)

Image: 電圧区分

電圧は、次の区分により低圧、高圧及び特別高圧の三種とする。

一 低圧 直流にあっては七百五十ボルト以下、交流にあっては六百ボルト以下のもの
二 高圧 直流にあっては七百五十ボルトを、交流にあっては六百ボルトを超え、七千ボルト以下のもの
三 特別高圧 七千ボルトを超えるもの

ビルや工場などで機器が大型化により欧米由来の三相400Vを電源とするものが増えたことと、欧米における低圧の基準に合わせて、交流300Vが600Vへ引き上げられた。ただし、使用電圧が300V以下とそれより上では施設基準が相当異なる。(資料4)

参考文献

  1. 電力政策研究会(編)『電気事業法制史』, 電気新報社, 1965年.
  2. 澁澤元治『電気工作物規程の今昔(一)』, 電気協会雑誌, Vol.433, 1959年, pp.11-12.
  3. 澁澤元治『電気工作物規程の今昔(四)』, 電気協会雑誌, Vol.436, 1960年, pp.47-48.
  4. (公社)日本電気技術者協会『電気設備技術基準における電圧の区分と施設規制』, 会誌「電気技術者」4月号, 2008年.

引用文中の漢数字や片仮名英語はアラビア数字や英字へ改めた。ただし、法令からの引用はそのままとした。


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